秒速5センチメートルに見る感動のメカニズム

WOWOWでやっていた新海誠氏の作品「秒速5センチメートル」を視聴しました。その感想と考察です。
最後の貴樹の笑みから、「ほろ苦いハッピーエンド」ということになっている本作。
「そして男は歩き出す」「男はロマンティスト、女は現実主義」などという言葉がすぐに浮かびます。
しかしそれで納得するには、「精神力」もしくは「生きるパワー」がかなり必要です。なぜでしょう?

男性と女性で、感性の違いがあるのは仕方がありません。
極めて大雑把に分けると、「男はロマンティスト。女は運命主義者」です。
男は子供の頃の夢の実現や、理想の追求に極めて重きを起きます。
近作の主人公貴樹は、「必ず彼女は振り返る」と確信していました。自分が抱えてきた子供時の初恋に対するロマンを、相手も当然抱えていると考えていたからです。

女性は占いが好きです。霊魂や超常現象を信じる人も少なくありません。
どちらも共通するのは、自分の力では及ばない何らかの大きな力ということです。
十数年以上も経て、踏み切りで初恋の人とすれ違う。極めて運命的な出来事です。しかし彼女は立ち去ってしまう。これは本来おかしい。
特異なキャラクターだとその前に描かれているならともかく、彼女は最大公約数的な一般女性として描かれています。それなのに立ち去ってしまったら、見ている方は感情移入の器がなくなり、気持ちの行き場がなくなってしまいます。
オマケに「男はロマンティスト、女は現実主義」と言われたら、物凄く不本意でしょう。
おかげで男性は「女は運命主義者だから、男が初恋に寄せるロマンは理解できない」と納得し、女性は「定職を辞めたダメ男では、新婚ホヤホヤの女性が振り向かないのは当然」と、無理やり納得する破目になってしまいます。

エンターテイメントである以上、カタルシスは不可欠です。それがかなり薄味なのが新海作品の色ではありますが、それでも「一見ハッピーエンド、しかし実は微妙」という形で済んでいたのが過去作です。プラスのハッピーエンド分が、深く見るとマイナス分で減らされる形が、これまでの作品でした。
しかし今作は違う。「一見バッドエンド、しかし少しハッピーエンド」という結果、カタルシスはマイナスから始まり、プラス分が足されても決算で赤字を計上しているのです。
「ハッピーエンドなのだ」と納得するには、歩き出す貴樹の笑みは小さすぎるのです。カタルシスを生むには与えるパワーが少なすぎるのです。
だから、男性も女性も理解のレベルを押し下げるために、ごっそりパワーを持っていかれるのです。

悩みに悩んだ末、こういう結末にしたでしょうから新海氏はわかっていると思います。
けれどもこのままだと、ファンだとしても見る人は少なくなっていくでしょう。残念ながら、エンターテイメントでパワーを持っていかれるのが好きという人は少ないです。
せめて決算が黒字にならないまでも、赤字が消えるだけの仕込を入れて欲しかったと思います。
一番簡単な手は、踏み切りで振り向かせることですが、新海氏のポリシーに合わない。私ならスタッフスクロールの後、1つエンディングを追加します。キーワードは「男はロマンティスト、女は運命主義者」です。

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「と言うわけで、この通信規格は凄いわけです。で、よろしいですよね?」
 テレビのアナウンサーが冗談めかして横に振る。カメラが引くと貴樹が笑っている。
「そうです。しかし、実はもっとスケールが大きいのです」
「と、言いますと?」
「この通信規格は、理論上どこでも通信が可能になります。たとえ宇宙の端と端に別れてしまったとしても、想いを伝えることが出来るのです」
「宇宙の端でもですか! それはいいですねぇ」
「いいでしょう?」

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 これだけです。新海氏は架空要素を排除することを、近作の目玉にしていますが、そこはあえて無視しました。
 貴樹は頻繁に宇宙の情報に注目しているので、伏線としてはバッチリ整っています。
 男は新たな「ロマン」を掴み、そして「秒速5センチメートル」という作品が、次につながる「運命」的な作品だったことがわかります。
 そう。「ほしのこえ」へと。
 いかがでしょうか?