アタリショックの真実(2)「そして崩壊する北米ゲーム市場」

1982年の価格暴落から、なんとか立て直したい1983年。
壊滅状態の市場の中で、奮闘していたのが実はコレコでした。「ColecoVision」は1983年上半期の段階でも合計140万台しか売れていません。でもコレコ自身は1982年だけで800万本ものソフトの売上がありました。なんでかと言うと、Atari2600やインテレビジョンにソフトを供給したんですね。

「アタリ、マテル向けの出荷は約600万台に達する」コレコ グリーンバーグ社長(日経産業新聞 1983年8月30日)

その600万のうち大半を占めたのが、任天堂からライセンスされた「ドンキーコング」です。コレコのおかげで、アタリ市場が少なからず延命したのは間違いないでしょう。
とはいえ、コレコ1社でどうにかなるものでもありませんで、遂にTIME誌に決定的な記事が載ってしまいました。

「Video Games Go Crunch!」(ビデオゲーム市場はグチャグチャだ!)
http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,952210,00.html

Crunch」は「危機」という意味ですが、「Go Crunch」ですと、「グチャグチャ」とか「メタメタ」とかそんな意味になるのですね。なにしろ1983年に入って、ソフトの価格が30ドルから5.99ドルという凄まじい状態に突入します。実に8割引ですよ。日本で言えば、3000円のソフトが600円程度で店頭に並ぶようなもんです。もうビジネスモデルもへったくれもありません。
この記事で、ゲームプロデューサーであり、コラムニストのRawson Stovall氏は

「多くのメーカーが劣化製品で市場を氾濫させました。私の友人は混乱して、全てに失望しています。多くのゲームは、全く刺激的ではありません」(TIME 1983年10月17日 上記URLの2ページ目)

と語りました。
1982年末の暴落から、このTIMEの記事まで10カ月。物凄い勢いの凋落です。劣化ソフトの氾濫は、ユーザーの関心を容易に奪うのですね。アメリビデオゲーム業界は、危機からクラッシュに移ろうとしていました。
アタリの第2四半期決算、損益3億1050万ドル。第3四半期、損益1億8000万ドル。1983年ホリデーシーズンも立て直すことはできず、Atari2600自体が50ドルで投売りされることになり(日経産業新聞1984年6月6日)、結局1983年だけで5億3860万ドルの損益を出すことになりました。(ニューヨークタイムズ1984年7月2日)
日本でもこの米国ビデオゲーム業界の惨状が伝えられています。

親たちは、子供にねだられてビデオゲームを買い与えたものの、そのあまりの熱中ぶりにまゆをひそめたりしていた。しかし最近は当の子供たちがビデオゲームに飽きている。(中略)最盛時には30社近くあったカートリッジメーカーがいまや7、8社に減ってしまった。「もう需要が急激に伸びることはない」と、あるメーカー担当者は肩を落とす。ハイテク最前線のビデオゲーム業界にこのところ冷たい風が吹き始めている。(日経産業新聞1984年1月18日)

1984年7月にワーナーはアタリのホームゲーム部門を売却。(日経新聞1984年7月3日)
そして1984年10月18日、来るべきものが来ました。
アタリ、テレビゲーム市場撤退。(画像は日経産業新聞1984年10月19日)
もしアタリのところを任天堂とかソニーとかにしたら、どれほど大騒ぎになるでしょうか? 
そしてアタリ撤退の後ぐらいから、報道の表記の仕方が変わります。

the collapse of the video game market.」ニューヨークタイムズ1985年4月17日
http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9F01E7DC1138F934A25757C0A963948260&scp=14&st=cse

文字通り「テレビゲーム市場の崩壊」です。日本でもどっとこの状況について報道がされ始めました。あっという間に市場がなくなったんですから、当然です。

任天堂は、国内での磁気ディスク方式と平行して、ファミコンの対米輸出を《決行》する。それにしても、任天堂が乗り込もうとしている米国のゲーム市場は、なんと荒涼たる風景であることか。一年半でホームコンピュータの価格が四分の一に崩落する死闘の果てに、半導体の巨人T.I.は経営危機に追い込まれ、コモドールは経営者が交替し、シリコンバレーの最も輝ける星と言われたアタリも脆くも《解体》してしまった。(中略)米国には2000万台のビデオゲーム機の死骸が転がっている。ゲーム機などもう見たくもないという米国の消費者をどうできるというのか。」(週刊東洋経済1985年7月13日)

任天堂が目標としてきたアタリが開拓してきたアメリカのビデオゲーム市場が1300万台を超えた時点で、一気に閉鎖してしまったのである。その数、1億とも言われているゲームソフトを消費してきた市場が消えたのである。流行の運命と言ってしまえばそれまでだが、質の悪いソフトの横行と新傾向のものが続かなかったのが大きな原因である。」
(「ファミコン・シンドローム : 任天堂奇跡のニューメディア戦略」片山聖一 1986年3月)

「アタリ社は一時、家庭用ビデオゲームファミコン並みに普及させた。しかしハードを無条件に開放させた結果*1、他社参入によるゲームソフトの粗製濫造を招き、ブームを短命に終わらせた。」(日経新聞1988年1月25日)

アタリを発端とするゲーム市場崩壊を見て、任天堂はかなり早いうちからソフトの乱売を抑制する動きをしていたようです。当時の任天堂社長山内氏の発言でもそれは言及されていますし、実際に措置を取っていました。

C「たとえば任天堂との契約で、ソフトは年間何本までしか作ってはいけないと決められているんです」
――エ ホント?
B「それは、ソフトの乱売で市場が死んじゃうのが怖いという前提があるからでしょう」
B「任天堂も決して意地悪で言ってるんじゃないですよ。粗悪なソフトが出回っては困るという考え方でしょう」
(「覆面座談会 ファミコンソフト開発競争の舞台裏」財界p57 1988年6月14日)

実際のソフト開発者にも任天堂の意図が伝わっていたようですね。
アメリビデオゲーム業界は、1985年10月にアメリカに本格上陸したファミコンによって、ようやく蘇ることになります。劇的なシェア復活について、ニューヨークタイムズはこう書きました。

アメリカゲーム市場は、最初のゲームが出た1979年にさかのぼります。工業売上高は1982年に30億ドルまで急上昇し、絶頂期が来ました。そして1985年までに1億ドルへと転落したのです。任天堂がニューヨークとロサンゼルスのテストマーケットで得たのは、1985年から1986年の暗黒期、面白くないゲームと、劇的に氾濫した価格でした」(ニューヨークタイムズ1988年12月4日)
http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=940DE6DE1E31F937A35751C1A96E948260&sec=&spon=&pagewanted=2

ソフトの粗製濫造と海賊版による市場価格の暴落。そして1つの市場の崩壊。アタリショックは今も教訓として生きているのです。
ネバダ大学 Sushil J. Louis教授の授業資料 パワーポイントファイル(「many bad games」が原因だったとしている)
http://www.cse.unr.edu/~sushil/class/games/notes/sushilHistory.ppt
アリゾナ州チャンドラー市で行われたイベントの講義科目
http://www.chandleraz.gov/newsrelease.aspx?N_UID=1181

*1:筆者注:無条件に開放させた事実は無いとの指摘有