アタリショックの真実(1)「それは暴落から始まった」
アメリカのテレビゲーム業界には、「アタリショック」という事件がありました。1982年にピークを迎えた市場規模が、2年後に1/30にまで縮小してしまった事件です。そこではいったい何が起きていたのか。振り返ってみたいと思います。
テレビゲーム市場が最初に立ち上がったのは、アメリカでした。アタリ社のAtari 2600(別名VCS)は1981年終了時点で、600万台を突破。(「Video Invaders」104p 1982年 著者Steve Bloom)テレビゲーム市場の80%を独占します。(同106p) 1982年末には1000万台に達していました。(アメリカ全体の販売台数は1500万台)(ニューヨークタイムズ1983年1月20日)ライバルの1つであるコレコの「ColecoVision」でさえ、1982年末でようやく50万台ですから、その独占振りが目立ちます。(ビジネスウイーク1983年6月13日)
シェア的にも、1982年末時点でアタリが67%と圧倒的。1982年ベストセラーソフトは1位から4位までAtariが独占してます。それ以下は今度はインテレビジョンのマテル社が独占していますが、販売本数で6倍以上つけられていますから、拮抗しているとは言い難いでしょう。(「ホームビデオゲーム・ホビーパソコン市場の需要分析と今後の展開」101p 1983年4月 矢野経済研究所)
*1ある程度まで伸びたColecoですが、ColecoVisionに装着できるAtali 2600互換アダプターを皮切りに、アタリ用ソフトの発売も行い、アタリ2600互換機としての比重も大きくしていきます。おかげでアタリソフトの価格暴落の影響も大きく受けてしまい、「アタリが駄目なら、コレコを買えばいいじゃない」とはなりませんでした。
アメリカでは年末商戦を「ホリデーシーズン」と呼び、期間も10〜12月と非常に長い特徴があります。玩具界にとっては、この時期に収益の8割近くが集中するという超かき入れ時でもあります。
そんな1982年のホリデーシーズン。前年から圧倒的な成長率を誇ったAtari2600のソフト価格が、突如暴落を始めます。新品ソフトがいきなり5割6割引で店頭に並ぶのですから、半端ではありません。
ミサイルコマンド」という降り注ぐ隕石やらミサイルやらを、迎撃ミサイルで撃墜するというゲームがあるのですが、その類似ソフトだけ3タイトルも発売されています。紹介しているソフトはみんな固定砲台が、上空から飛来する敵を迎撃するゲームです。
そして海賊版の氾濫です。この海賊版。ブラジルを中心とした南米や、ドイツを中心とした欧州で、本家を凌ぐ猛威を振るうことになります。
最終的に「ミサイルコマンド」の海賊版は4本にものぼりました。類似ソフトの「アトランティス」はデキが良かったせいで、本家を追い越しその数なんと11本。「コマンドレイド」の海賊版は6本、「M.A.D」の海賊版は1本ありました。ここに挙げたタイトルだけで、既に26本もあります。しかし海賊版を抜けばたったの4タイトル。類似ソフトも抜いたら1本のソフトにしかなりません。
最悪なことにアタリ社は理由の分析ができず、ホリデーシーズンの値引き合戦と勘違いして追随。値下げ宣言を行って、暴落に拍車をかけてしまいました。(TIME 1983年6月27日)
当初ユーザーはこの状況を歓迎していました。暴落で最新のソフトが安く手に入るからです。おかげで1982年のビデオゲーム市場は過去最高の20億ドルを突破しました。(NPDリサーチ社)
でも当然こんな状況が長続きするはずありません。一番のかき入れ時であるはずのホリデーシーズンに、ソフトメーカーは続々と赤字に転落しました。
アタリの親会社ワーナーは1982年第4四半期の損失として1890万ドルを計上。前期まで黒字が続いていたのに、突然1四半期だけで日本円換算で20億円という巨大な赤字を出したんですから、半端ではありません。さらに1983年第1四半期には、4560万ドルにまで損失が膨らみました。(ニューヨークタイムズ1983年4月28日)ワーナーの株価は暴落。市場価格の1/3にまで下がってしまいます。
1983年。ついにユーザーへの影響が広がり始めます。そもそも面白い類似ソフトなんて、ほんの一握りしか出ません。劣化ソフトや類似ソフトで水増しされていても、ユーザーの期待を裏切ることには変わらないわけです。
新しいソフトを作ろうにも、ソフトメーカーは既に利益を確保できずに、バタバタ倒産していきます。さらには試作ソフトまで出回り、無法状態となりました。
もちろん日本でも、当然アメリカゲーム業界の苦闘が伝えられます。「月刊 電子技術」に掲載された「構造変化を強制される米国ビデオゲーム業界」では、ワーナーの赤字を問題視し、その原因を「1:ビデオゲーム需要の頭打ち傾向 2:ホームコンピュータ価格下落による産業構造の変化 3:アタリ社の価格政策」とまとめています。(1983年9月号 瀬見洋 p78〜80)
しかし実際には、そんな生易しい状況ではありませんでした。
アメリカでは、「アタリショック」と言わずに「ビデオゲームクラッシュ1983」と呼びます。日本より進んでいたアメリカ市場では、アタリ社を中心とするテレビゲーム市場と、コモドール社やテキサスインスツルメント社(T.I.社)を中心とする「ホームコンピュータ」市場というのが有りました。この2つがそれぞれ共存する形で成り立っていたのですね。
「ホームコンピュータ」とは業務用パソコンに対しての「娯楽用パソコン」という位置づけで、専用モニタでなくテレビにつないで使用します。またゲーム以外のことも出来る割に価格が安く、アメリカではテレビゲーム市場と共に大きなシェアになりました。日本で言うと「ぴゅう太」がそれに当たります。
しかし1982年12月、アタリの値下宣言に巻き込まれる形*2で、当時のホームコンピュータメーカーであるコモドール社やT.I.社も、赤字を省みない激烈な値下げ合戦に参加。T.I.社は巨大な赤字を抱え、1983年には撤退してしまいます。
ニューヨークタイムズはこれを
「ホームコンピュータ市場が崩壊(Crash)に向かっているのではないかと疑問が上がっています」
(raising questions about whether the home computer market is headed for a crash.)
「THE COMING CRISIS IN HOME COMPUTERS」1983年6月19日
http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?sec=technology&res=9503E5DF123BF93AA25755C0A965948260&scp=5&sq=video%20game%cse
と伝えました。
つまり「アタリショック」の起きた原因は、単純な「ソフトの粗製濫造による」ものだけではなく、その市場の状態を感知できなかったアタリ社の大幅な値下げ。それに端を発するホームコンピュータ市場の危機があったのですね。
さあ、まだこの時は「危機」で済んでました。1984年いよいよクラッシュが始まります。その辺りのことは、別記事で。